毛利元就の三本の矢の本当のところとおいしい話し

毛利元就の三本の矢の本当のところ

毛利元就は、小早川秀景 吉川元春 毛利隆元に次のような事を伝えたという事がよく知られています。「1本や2本の矢では折れてしまうが、3本ならば大丈夫 

お前たち3人が手を取り合えば家は続く」 しかしこれは本当のところ、作り話ですまず、隆元は親である元就より早く死去しています。それを隆元の子の輝元が継ぎ、秀景と元春がサポートをして、毛利の血を死守したのです

ですが、運命の悪戯とも言うべきか「3本の矢」の裏返しとなる事件が発生しました。関ヶ原の戦いの折 小早川家と吉川家の呼吸が合わず、毛利家は東の徳川の傘下に入ったのにもかかわらず、たくさんあった領地が侵略され、所有する国が長門と周防だけになってしまいました。

しかし、元就にはさらに隠し持った矢が実に6本もありました。つまり、総勢9名の息子を設けていたという事です。正妻の子供が冒頭の3名で、側室の子供が残りの6名という事だったのです。

毛利本家の輝元は子宝に恵まれなかったため元就の四男に該当する穂井田元清の子供である毛利秀元が、毛利本家を受け継ぐ運びになりました。ですから、幕末まで継続した毛利家(長州藩)は、実は「四男のもの」だったのです。「3本の矢が全部ダメになったんですけど……」 「ふーん、でもまだ6本もあるし余裕じゃん?」 なんて会話がどこかであったのか否かは分かりませんが元就は4本(5本 6本 7本 8本 9本!)目の弓を持っていたというわけです。3本と思わせて、6本も潜ませておく…… 毛利家は常々4本目の矢によって保たれていたのです。

毛利元就の死去後の流れ

毛利元就が死去して、孫の毛利輝元が受け継ぐ運びになりました。叔父の小早川隆景と吉川元春の手厚いサポートもあって。毛利の名は広がり、中国を支配するまでに至りました

しかし、織田信長がその状況を打ち破ります。争いは不利な状態のまま継続し、豊臣秀吉の高松城が大水による攻撃を受けます。このときはほぼ和解(とは言っても、本当は毛利の臣従です)へと移行しようとしていました。しかし、有名な「本能寺の変」での織田信長の死亡を良い事に豊臣秀吉が企てを起こしそれに唆される形で和解が成立しました。この際 豊臣秀吉の追加攻撃論も浮かび上がりましたが、最終的には諦めたようです。

その件を豊臣秀吉が高く評価し、五大老の中に毛利家の籍を設けるまでに至りました。

ですが豊臣秀吉が死んでから、毛利家の凋落が始まります。関ヶ原の戦いで西のリーダーという立場を押し付けられ。120万石前後保持していた土地が、40万石未満にまで厳守してしまったのです。しかし、運命というものは分からないものです。関ヶ原の戦いの怨念が幕末に大爆発し「打倒幕府」の先駆けとなりました。その功労を高く評価され、明治維新は華族となって、方今まで継続しています。